ギャンブル依存症の龍二のブログ

日々思っている事や、経験してきた事などを載せていきます。

過去の自分を見付ける旅(2)

山梨の富士五湖ダルクは富士吉田市に在り、自然に囲まれていて、水道ヒネればミネラルウォーターが出てくる、そんな環境に恵まれた地でした。

移動手段は、自転車か車でした。富士吉田市は坂道しかないので、上りはキツく、下りは楽ちんでしたね。


富士五湖ダルクでは、自我が強い人らが多かったです。

アウトロー5人、元ヤンキー3人、元ニート5人ってな感じ。

一つ屋根の下、スタッフ含め16人くらいが一緒に生活してました。


まあ、間近で見れる富士山が凄かったですわ。

富士山見ながら一日が過ぎてゆく、そんな土地ですね。


プログラムは、2回分かち合いのミーティングを、2チームに分かれて行い、夜は近くのNA(薬物の自助グループ)会場か、車で山梨ダルクがやってた会場へ出向き、分かち合いをしてました。


この富士五湖ダルクは、12ステップは基本1.2.3しかやっておらず、その他のステップは個別に希望者だけやってたね。つうか、私だけしか他のステップはやってなかった。

36歳の1月に富士五湖へ来て、1ヶ月後に奈良のセレニティパーク・ジャパンから、弟分の仲間が富士五湖へやってきてから、毎日ステップ10のシェアを、弟分に相手してもらってた。


この富士五湖ダルクの醍醐味は、自然プログラムやったかな。

スケートやスノボー、音楽教室、ソフトボール、花見、畑仕事、雪かき。


途中、ギャンブルが止まって4ヶ月した頃、レンタルビデオ店のゲーセンで、パチスロ機を遊んだのをハウスミーティングの議題にかけられて、アルコール依存症者がノンアルコールを飲むのと同じ行為やと責められ、スリップとみなされ、またいちから出直しを喰らった。

私自身は、スリップしたという認識ではなく、単にゲーセンで遊んだしかなかったけど、施設長に、皆と仲良く過ごしたいなら認めるしかないやろ、と言われたので認めざるを得なかった。


36歳の6月頃に、料理当番やら、ごみ捨て、掃除、いつも他の仲間2人に分担をお願い出来れば長続きしたやろうに、それが出来なかったので、精神的に参ってた。


ある時、ある親しい仲間から、私の中に居る内なる人格の話を持ち出され、その時を境に人格の事をよく考える様になってった。


もっと、自分自身の事を知りたい!!


その後自己退寮し、東京へ向かった。

今回はこの辺で、失礼します。

過去の自分を見付ける旅

10月中旬、元カノを追いかける為に、安易に施設を退寮した。

仕事をしようにもヤル気が出ないので、とりあえずNPO団体の力を借り、緊急一時保護施設に入った。

ある夜、携帯電話にスポンサーである、ギャンブル施設の施設長から電話があり、今ならまだ間に合うから戻ってきたら?と言われたが、その時は思考が元カノ一直線だったから、断わってしまった。

この時、断らずにギャンブル施設に帰っていれば、後々長い年月をかけて過去の自分を探さなくても良かった。後悔の一瞬であった。


12月に入り、NPO団体が間に入って、大阪市中央区の繁華街に住めた。

ここはかなり短期間で出るはめになった。

スポンサーであった施設長が、もう君の面倒はみれないと言われたので、ムカついてビール飲み、酔ったいきおいでパチンコ店を覗いてたらパチンコ店に入ってしまい、案の定やってしまった。

パチンコをやってしまったら、最後、行き着く所まで行き着くのが、ギャンブル依存症の怖い所。

施設長に電話で助けを求め、山梨県の富士五湖ダルクを紹介してもらい、電車賃の大半は着いてからスタッフが払ってくれるらしく、急いでNPOと不動産会社に電話して、理由を話し、カバン一つ持ち山梨へ行ったのを憶えています。


富士五湖ダルクの施設長、今だから言える、この人は私にとって付き合いが長くなった人の内の一人でした。

電車の運行時間上、静岡駅で降り、改札口までスタッフに迎えにきてもらい、車で深夜の高速道路を飛ばし、3時頃かなダルクに到着したよね。

当時の富士五湖ダルクは、ギャンブル依存症者をかくまってくれてました。

奈良の施設で一緒に暮らしていた、ギャンブル依存症の仲が悪くなった仲間と再開を果し、人から承認されたいという病的なAC体質をさらけ出すことに、この富士五湖ダルクで相成りました。


施設の寮で多数の人らと暮らしていると、ギスギスするものがあり、よくいざこざがありたした。

自分の立ち位置がわかると、慣れてきて、コミュニケーションが出来て、普通に暮らせました。

だけど、何かしらの当番をする時は、3人一組でやらなければならず、内二人が全く動かないので、代わりに私が認められたい欲求が出て、3人分の仕事をし、疲弊し、精神的に駄目になっていきました。


なんかね、最近学んでるけど、人から承認されたいって、思うのは止めて、承認されなくても良い、我が道を進むってのが、精神的に疲れない、一番良い方法らしいです。


今回はひとまずここまで。疲れました。

また、次回に以降を書きます。

ではまた、失礼します。

今思えば、奈良ダルクは初期の初期

35歳になった年の2月、大阪マックのスタッフの紹介で、薬物に狂った彼女から逃げる様に、当時の奈良ダルクへ入寮した。


ダルクって、マックと違うところが薬物が主体で、だから墨が入ってるアウトローの人間がわんさかなんよね。

そのへんで、最初は苦労した。

仮釈放で刑務所から出てきて、3ヶ月から半年はダルクで過ごし、時期が来たら自己退寮するヤツが多かった。

そんな中で私が所属してたのが、私含め7人くらいのギャンブル依存症の部みたいな所だった。


確か、4月までの間はダルク所属で、デイケア内で2回分かち合いのミーティングをし、夜は近くのGA会場へ行き3回目のミーティングをしてた。

たまに、昼のミーティングをやらずに、エンカウンターグループミーティングという、8人ぐらいが輪になって、自分がわからないことなどを質問し、答えを受け取り、また、質問されたりを繰り返す。ってゆうのんがあった。

そのエンカウンターはつまり、対象者の外側の感情や意識から、内側へアプローチしていき、本当の感情や意識に気付かされるという、ありがたいものだった。


4月からは、同じ敷地内に新しく出来た、セレニティパーク・ジャパン(ギャンブル依存症専門)、へ他の仲間達と一緒に移った。

ここでは、リカバリーダイナミクスプログラムという、いわゆる自助グループでやる12ステッププログラムをわかり易くしたものを、最低3ヶ月間、AAのビッグブックを参考に勉強した。凄いスピードで。

勿論、夜はGA。

休みの日は、土日。土日のGAは自主的に参加してた様に思う。


この間、彼女から私への電話がひっきりなしに施設へかかってきてたらしく、スタッフが対応してた。そんな人居ないし、言えないよって。


携帯電話は、大体2ヶ月から4ヶ月したら返してくれていたので、電源入れてしばらく放置してると、彼女からメールや着信があったりしてた。

私は、ACの見捨てられ不安がとてもあって、身近な人との縁を切れない、切りたくても病的に繋ぎとめとこうとするのんがあり、彼女と連絡を取れる様にしてしまってました。

それが原因で、寮の近くの駅で会うことが、3回あった。

2回目までは、キスぐらいだけだったけど、3回目は、大阪の大正区に在る彼女の家まで行き、最後までやってしまった。

3回目に会った頃は、再度、隣のダルクへ移り、スタッフになろうとがんばっていたが、最後までやってしまったのをきっかけに、彼女へ情が入ってしまい、ちょうど周囲のアウトローの人ら共、仲良くコミュニケーションがとれてないのもあり、暫くして、彼女を追いかける為に自己退寮してしまった。


今思えば、奈良ダルクは初期の初期、自分自身の氷山の一角を見つけられた、非常に良い依存症回復施設だったと思う。


この奈良ダルクに入った事で、20歳以前の事が思い出せる事になったし、自分はおかしい、内なる娘が居ると思えたのも、この施設のおかげだったからである。


今回はひとまずこの辺で。

では、失礼します( `・∀・´)ノヨロシク