ギャンブル依存症の龍二のブログ

日々思っている事や、経験してきた事などを載せていきます。

33歳からgaに再度繋がる

昨日は、幼少期から33歳までを書きました。

今日は、それ以降を書きたいと思います。


そう、gaに再び繋がり、大阪市浪速区に住んでたので、ミーティング会場が沢山ありましたね。

28歳の時は、大阪市内の福島らへんに1箇所しかなかったんですけど、33歳の時には沢山ありました。

だから、週に5回はミーティングに参加し、財布には、1日2000円までしか入れなかったです。大金を持ってたらギャンブルにつかうから。


当時付き合ってた彼女に、アンタおかしいから精神科へ行ったら?、と言われ近くのクリニックへ行き始めたのが、自分自身を知るスタートの始まり始まり〜でした。

このクリニックでは、抑鬱と薬物の後遺障害に、病的賭博の3つだけでした。

今思えばヤブ医者だったと、思います。


34歳の12月中旬頃に、阿倍野に在った大阪マックという、主はアルコールと薬物、他の依存症も引き受けてくれる依存症回復施設へ、依存症仲間の紹介で通所してました。

ここでは、1日3回のミーティングで、日曜も休み無しだったと思います。

順調だったんですが、(笑)若くて可愛い女の子が通所で、12月下旬から入ってきて、その日の内に仲良くなりましたね。

で、その子が通所2日目の夜に、ミーティング終わってからカラオケに誘っちゃいまして、中でチューして、帰りの電車が無いのを理由に部屋に来ない?何もしないから、みたいな。部屋に入るなり即Hしました。

んで、即同棲w、早かった。

今思えば、少し反省してます。


同棲して間もなくして、愚かさに気付きまして、施設長へカミングアウトしたら、出ていけ〜!みたいな。

でも、きちんと同棲はしてました。


彼女は、境界性パーソナリティ障害で、多重人格でした。

色々あったので、結構つらかったのを憶えています。


彼女が薬物に対し、非常に問題があり、売人の所へ行き、身体を渡す代わりに物を受け取る行為をしてました。

彼女もギャンブルが好きで、パチンコが止まらないらしく、私を誘ったりそれを断ったりが、私には苦痛でした。


このままだと、せっかくギャンブルしないで居れてるのに、再び手を出してしまうんじゃ!?と焦ってしまい、大阪マックのスタッフの紹介で、奈良ダルクへ入寮し、彼女から逃げてしまいました。

でも、悪かった訳ではなかったことは、この奈良ダルクが教えてくれました。


今回はこの辺で。


次回、12ステッププログラム、エンカウンターグループミーティング、等など、奈良ダルクで教わった事を中心に、それ以降を書きたいと思います。


ではでは、失礼します。

( `・∀・´)ノヨロシク

ギャンブル依存症の龍二です。( `・∀・´)ノヨロシク

はじめまして、ギャンブル依存症の自助グループ、gaに通っています龍二(りゅうじ)と申します。


今日は日曜日、NHKの西郷どんを観たいのと、ミーティングへ行くのがダルいので、ブログで済まそうと企みました次第です。ww


簡単な経歴を載せてみます。

 幼少期から父からの虐待(しつけ)、近所のガキからのイジメなどと、自身の弱気な性格が原因で、盗みを始め常習化する。

 小学4年生ぐらいから、エロ本でオナニをするようになる。

 中学生になりしばらくしてイジメが激化し、性的イジメや暴力を受け始め、親から虐待、皆からは暴力の板挟み状態が嫌になり、13歳からパチンコ屋に出入りするようになる。この頃からタバコも吸いだし、原付バイクも盗み、抱いてる感情から逃げるようになっていった。

 高校生時代、1年の秋まで大好きな空手を部活動でがんばっていたが、コンチネンタルというパチスロ機へ散髪代を注ぎ込んでしまい、母の友達から1万円借り、返すためにはバイトをしなけりゃと空手部を辞め、生きる糧を失った私は、パチンコ屋のモーニングにハマる。

高校生時代は、全日定時、昼夜合わせて7年間通う。途中1年半、シャブとシンナーにでくわす。

 22歳から仕事先で出会った人妻と、その日に肉体関係、セフレになり、ヒモになる。ヒモ経験や、父への憎悪感情、母からの融資を当てに甘え続けた結果、壊れだす。

 23歳ちょいの時、父から家を出ろと自立を促されたが、父への憎悪が激しかった当時は、笑いながら母から父の給与の大半を絞り採り、その金でパチンコ三昧した。勿論、サラ金からも5社からつまみ使い込み、飛ばした。

 25歳ちょいの時に、地元の友達と部屋を借り、違う友達からオカマも住ましたれと、私の部屋にオカマが寝るようになった。部屋にはカーテンが無かった。退去するまでずっと。

 27歳手前時に、少し離れた山の中に引っ越した。仕事も何回も辞めはするが社員で働いた。

給与貰ったら全額ダンプするのね、私。異常やったね。台の機種の当たる時は演出が画面いっぱいに出るんやけど、その演出観たさに大金を注ぎ込んでた。母からも何回も融資して貰い、即日パチンコ屋の売り上げに貢献してた。w

 28歳の時、家の電気ガス水道が全て止められて、水道だけは出しときたかったから水栓ヒネって出してたのね。あくる朝、水栓そのものが撤去され、トイレの大の時だけ山を下りて、商店街のトイレで用を足し、トイレで水を汲むみたいな感じやった。光はロウソクかな。部屋は虫だらけやったのは憶えてる。

 ある友達が精神障害者で、生活保護を受給してたので色々話しを聞き、生活保護を受給するようになってから、少しづつ自分自身が見え始めた。

 母から、アンタおかしいから一緒に精神保健センターへ行こやと言われ、仕方無く行ったのを憶えてる。担当者から、あなたはギャンブルに問題があるので、自助グループのga(ギャンブラーズアノニマス)をおすすめしますと教えて頂いた。この辺りから1ヶ月はギャンブルも止まってた。でも、父から母に行くなと言われたそうで、自然と私も行かなくなった。

 28歳から33歳位までに、ホームレスを6回しながら流れ着いた大阪で、やっとまたgaに再度繋がる事ができたのが、長い長い回復人生の始まりやったね。


次回、また書けたら色々たくさん載せたいと思います。

 とりあえず今回はこの辺で失礼します。

ではまた。